飛ぶ
作者:書三代ガクト
手元のはさみをパチリと鳴らした。一本また一本と入り組んだ線を切って、少しずつほどいていく。それでもまだ視界は絡み合ったまま、僕は溜息をついた。このわだかまりをどうにかしたくて、ゆっくりとはさみを動かす。
どうしてこんなにゆがんでしまったのか。その答えはすぐそばにあって、たぐり寄せるように数ヶ月前、平成最後の日を思い出した。
鳴った電子音に咥えていた温度計を取る。液晶には平熱を大きく上回る数字が刻まれていた。まじかよと息をこぼしたが、喉が焼けていて言葉にならない。あまりの体調の悪さに馬鹿らしくなって静かに笑う。天井がぐらぐらと揺れた。
かすむ視界に目を閉じる。口元まで覆ったふとんが妙に熱い。それでも体の奥はひんやりと冷たく、震えが止まらなかった。
僕に呼応するように、枕元のスマホが震え出す。いつも以上に重い腕を振り上げて乱暴に引き寄せた。クラスメイトのガクトから電話。ゆっくりと通話ボタンを押す。
途端に明るいBGMが流れ出した。思わず端末を遠ざける。叫ぶようなガクトの声に顔をしかめた。
耳に当てると彼の高いテンションが届く。その雰囲気に、今が平成最後の夜だと思い出した。クラスメイトが集まり、カウントダウンパーティーをしていることも浮かぶ。
彼の楽しそうな声は続く。真面目な委員長が電波ソングを歌い、黒ギャルの風紀委員はバラードに涙したと。相づちを打とうとして僕は咳き込んだ。少し落ち着いた口調で、彼は心配してくる。ちょっとやばいかもと僕は答えた。
「年号が変わる瞬間にみんなで飛ぶから」
少し戻ったテンションで、よければ一緒にと伝えてくる。そして電話は切れた。どこにも繋がらない電子音が遠くに感じる。端末が手から滑り落ちてどんと音を立てた。時間を確認しなきゃと、飛ばなきゃと思いながらも、重いまぶたが上がらない。
そのまま僕は眠りに落ちていった。
ゴールデンウィーク明けの教室は少し浮き足立っていた。うつむく僕とは対照的に、クラスメイトの明るい声が飛びかう。うまく乗り切れず、僕は自分の席へと急いだ。
「よう、風邪は治ったか?」
前の席に座り、にいと笑ったガクト。椅子の背に手を乗せて、頭を添えた。曖昧な僕の返事にも笑みを崩さない。
「ちゃんと飛んだか?」
とがめられたような気がして、僕の肩がびくりと跳ねる。手を止めて彼の顔を見た。特に変化のない表情。僕はうかがうように頷く。ガクトの笑みが深くなり、「そっか」と椅子を立った。
彼は席を離れて、クラス委員長に手を上げる。平成では見られなかった風景。その輪に加わる黒ギャルも初めてで、僕は目を丸くした。彼らは二、三言交わして、手を叩いて笑い合う。
あたりを見回してみれば、ゴールデンウィーク前にはなかったグループが点々とできていた。どこも楽しそうに話して、笑っている。僕だけが一人だと気づき、背筋がすうっと冷たくなった。
焦燥感を抱いて、立ち上がる。響いた椅子の音に自分で驚きながら、ガクトの元に向かった。委員長がメガネをクイと上げ、黒ギャルは目を丸くする。ガクトも珍しいじゃんと頬を上げた。
ゴールデンウィークは風邪で寝込んでいたと、僕は大げさな口調で語る。参ったよとおどければ三人は楽しそうに肩を揺らした。しかしガクトの時よりも控えめな表情。僕の不安が大きくなった。言葉だけが早くなっていく。それでもどこか空回っているのではと僕は焦った。それを否定したくて、手振りをさらに大きくする。
あの休み明け以来、僕は疎外感を抱えていた。カウントダウンパーティに参加できなかったからか、年号が変わる瞬間に飛べなかったからなのか。
いじめを受けているわけでも、ハブられているわけでもない。けれど僕の知らないところで何かが変わってしまった。そんな錯覚が消えてくれない。
変わったのは年号だけなのにな。
手を伸ばして、わだかまりをぱちりぱちり切っていく。さわりと梅雨明けの風が前髪を揺らした。
いや、きっと僕だけが変われていないのだ。
頑張って変えようとした。それでもどこか空回っていて、滑稽で、馬鹿らしくて、気持ちが悪い。きっとそれも勘違いだけれども、僕にまとわりついてくる。
はさみでラスト一本を切った。ふうと手を下ろして、正面に伸ばす。格子は少しだけ抵抗して、身を引いた。フェンスの向こう側で、風が手のひらを撫でていく。
やっぱりあの瞬間に飛べなかったのが、理由なのだろう。
屋上のフェンスは僕一人分の空間をぽっかりと空けている。複雑な絡みは今、目の前で大きくほどけていた。
だから僕はこれから飛ぶのだ
前に出るとフェンスが頬をひっかいた。ぴりりと痛む顔を無視して僕はぴょんと跳ぶ。
視界から床が消え、校庭が広がった。砂の地面にトラックの紐が引かれている。よく見ると円の左半分が右よりも角張っていた。
飛んで、新しい景色に気づいた。そのことに胸がすうっと軽くなる。そして僕はにっこりと笑った。