私のことを、好きな顔
作者:アンネリリーゼ・アウラ・
リーゼロッテ・リア・ゴッドフリート
「綾瀬先輩?」
諦めた筈だった。
けれど、本当は心の奥底にずっと。その気持ちを眠らせていただけ。
そう、消えて無くなる筈は無いんだ。あんなにも、好きだったことが。
□
「綾瀬先輩」
授業中の学園。誰もいない筈の屋上で、ふと自分を呼ぶ声が聞こえた。
絡みつくような甘い声音は特徴的で、相手が誰か逡巡することもない。
ゆっくりと瞼を開くと、思っていた通りの顔が私のことを覗き込んでいた。
「今日もここで寝てたんですねー。元優等生が、すっかり不良だ」
猫のような笑顔で、きゃらきゃらと笑う彼女。名前を、御園椎名(みその・しいな)。
変わり者で、ふらふらと生きているようにしか見えない女。協調性の無い孤独な少女。私と、お似合いの娘。
「そういう貴方こそ。今は体育の時間でしょ? 行かなくていいの?」
「着替えを盗みに?」
「どういう発想をしたらそうなるのかしら」
「画鋲にがびょーんって書いて、靴に入れておきます?」
「色々いたたまれない気持ちになると思うから、やめてあげなさい」
さっきのは撤回。やっぱり、私とは不似合いな人。
こうして一緒にいることも、本来ならおかしなことで。どうにも、アンバランスだ。後、冗談が酷く寒い。
「良い子ちゃんですね。いじめられた癖に」
「嫉妬されたのよ、秀才過ぎて。だから、除け者にされたことも光栄に思うことにしたわ」
「じゃあ、私も同じようなものですね。天才過ぎて、みんなとつるもうと思えない」
「だいぶ違うような気がするけれど」
何であれ、私達は女学園という同調圧力の社会で見事なまでにはみ出しものになった。
一人ぼっちと独りぼっちが、二人ぼっちになったわけだ。
とはいえ、面倒なことは多々あってもあまりネガティブに捉えることは無かった。
何故なら私は最初から、女子特有のグループというものが致命的に苦手だったから。
「ところでさ、先輩って彼氏とかいないんですか?」
「いるように見える?」
「全然」
「失礼ね?」
「だって、高嶺の花ですよ。先輩って。完璧超人だし」
「それにしては、人望が無い気がするわ」
「男がいれば違ったと思うんですけどねー。学校選び間違えたんじゃないですか?」
「どの口が、それを言うのかしら」
「さて、どの口でしょう。折角だし、確かめてみますか?」
桜色の唇に指を当て、悪戯っぽく笑んでみせる椎名。
くだらないジョーク。単なる悪ふざけ。
男にとっては魅力的なそれも、女である私にとっては悪友のやる馬鹿の一つでしかない。その、筈だった。
「……」
「ありゃ、先輩? もしかして私がチャーミング過ぎて恋に落ちちゃいました?」
チャーミングって。
椎名の残念過ぎる言葉選びに、はたと我に返る。
全く、私は何を惑っているのやら。女の子に、本気でドキドキするだなんて。
「なんでもないわよ」
「えー、さっきのは絶対何かあった顔でしたよ?」
「何かって、例えば?」
尋ねると、椎名は少し考えるような素振りをして一言。
「私のことを好きな顔」
途端、近かった距離を更に縮めて私のことを抱き締めた。
どくん、と鼓動が高鳴る。
「何を――」
「――私、気付いてましたよ。もう、ずっと前から」
咄嗟に出かかった声に、椎名が声を重なる。
「先輩、時折女の顔をするんですよ。私のこと見てる時」
それは、毒のような言葉だった。
一度耳に入ると、じんわりと脳内を蝕む凶悪な毒素。
常識と言われるものを、立ち所に崩していく凶暴な成分。全身が、熱くなる。
「ねぇ、先輩」
鼻先をかすめる果実のような香りに、妖しく見つめる三日月のような瞳。
指先から伝わる力と温度に、思考回路も蒸発していく。ちょろい女だ。
あぁ、だけど。為すがまま流されるまま、自分の欲に溺れていくことの何と心地よいことだろう。
「椎名……」
絞り出したのは相手の名前。けれど、その名前も何の為に口にしたのか。
止めようとしたのか、それとも他の何かを言いたかったのか。それすら分からないまま、私は。
「キス、しますね」
痺れるような恋の味を、その唇で覚えた。
□
「椎名……」
あれから、どれくらい経っただろう。
学園を卒業すると共に、ぱったりと途絶えた連絡に私は行動を起こそうとしなかった。
ハッキリとさよならされるのが怖かった。終わりを得るのが恐ろしかった。
だから私は、何もせず何も見ないことを選んだ。
漫画の最終刊を読むことで、自分の中でその世界に終わりを告げるのを拒絶するように。
大事な別れに、眼を背けたんだ。
そして今、偶然の出会いに私は十数年ぶりに手を伸ばす。
さて、私達の第二期を始めよう。あの時の最終回に、ようやく眼を合わせよう。歪な青春時代の、その続きだ。
「久しぶり、今から時間あるかしら?」
言葉に一瞬だけ躊躇して、椎名は私の手を握る。
あぁ、この顔は初めて見る。でも、この顔を私は知っていた。
私が椎名に、あの時した顔。私のことを、好きな顔――。