煙と時代
作者:今井モノ
染み一つない天井を見上げると、時代は変わったのだなぁと感慨深いものが胸を埋める。
その胸の思いも、ふーっと一息で煙を吐き出してしまえば、次にはもう消えてしまっているのだけれど。
午後からの厄介なプレゼンを終えて喫煙室に入ると、不意にそんなことを思った。
時代の最先端を走ると言っても過言ではない相手だ。会社勤めで十年を超え、それなりに経験を積んできたと自負できる俺でも、それなりに緊張する。
ネクタイを緩めて一息つきたいところだが、ここはまだ敵地で、そんな無様を晒すことはできない。
しかしだ。しかし一服くらい、タバコの一本くらい吸うのは構わないだろう。俺はそう高をくくった。
それともう一つの目的のためでもある、
それと人には話したことのない趣味の一つを埋めるためである。
こんなことを話すと奇怪な目で見られそうなので、誰にも話したことはなかった。
実は喫煙室と言うのは、けっこう面白い。
何が面白いのかというと、その会社の側面が喫煙室を見るとわかるのだ。
例えば、古くから続く会社だと、喫煙室の壁や天井、換気扇などはそれなりに汚れているものだけれど、存外きれいに清掃されている会社があったりする。これは会社の喫煙者に掃除をする心の余裕があるか、外部からきちんとした清掃員を雇うことができる証拠だからだ。
逆に喫煙室が汚い会社だと、掃除をする余裕がなく、何か問題を抱えていることが多い。
数年かけていろいろな会社を回った俺がそのことに気が付いたとき、なるほどなという思いと、喫煙室は面白いという魅力に気が付いたのである。
まあそれに気が付いたのは、通勤中に大手の電機メーカを作り上げた経営の神様の記事を読んだからっていうのが、少し虚しいところではある。
つい先ほどのプレゼンの話を蒸し返されてしまってはたまらないので、階段で会場とは違う階に向かい、喫煙室らしき扉に手をかけた。
趣味の一つに興じるのはいいが、ひとまず先に一服することが先決である。
紫煙を肺にめいっぱい溜め、口の中でもくもくと燻らせる。
口の中で煙を転がしながら、改めて喫煙室を見渡すと、とてもきれいだ。見たこともない白い素材で作られたそれは油一つ浮いておらず、埃どころか灰一つ落ちていない。
金がある最先端の会社はこんなところの材質も最先端なのかと思うと、少し笑えて来た。
しかし妙でもある。
いくら材質や機械がよくても、灰一つ落ちていないのは妙なものだ。
というか、灰皿がない。
とても困った。
携帯灰皿も手元にはない。まさか、ここは喫煙室ではなかったのかと慌てて扉を見直してはみたが、ばっちりタバコのマークが貼り付けられている。
落ち着こうと一服する度に、どんどん導火線が短くなる爆弾を抱えて、どうしたもんかなと考えていると、喫煙室の扉が開いた。
俺より十以上、下手すれば二十は離れてそうな若い女性である。
目があったので、軽くどうも、と軽く会釈をする。
何故か少し驚いていたようだったが、向こうも目をぱちくりさせ、どうもと会釈を返した。
もう爆弾が投下されそうになっているので年齢を気にしている場合ではない。
「すみません、灰皿ってここにはないんですか?もうこいつがいつ落ちるかわからなくてヒヤヒヤしているんですよ」
俺は灰をこぼさないようにしつつ、肩をすくめたながら尋ねた。
「え?灰皿?ああそうか、そうですね。よかったらこれをどうぞ」
そういうと彼女はかわいらしい柄の携帯灰皿を開いて差し出してくれる。
ありがとうと言いつつ、灰を処理し、ほっと一息ついた。
すると彼女はくすくすと少し笑った。
「よかったらもう一本吸われてはどうですか?満足に吸えなかったでしょう?」
「そりゃ助かる。ところで、気になってるんだけど、ここに灰皿はいつもないのかい?まるで誰も使っていないようにきれいな喫煙室だ」
もう一本に火をつけ、気になっていることを聞いてみる。
「そうですね、ここに灰皿はありませんよ。だけどここは喫煙室です。なぜなら私が扉にタバコのマークを張って、私がここでタバコを吸っているのですから。ちなみにここでタバコを吸うのは私しかいません。時代ですかね?」
「妙な言い方をするね。それじゃまるで君が喫煙室を作ったみたいだ」
何か愉快な人物に話しかけてしまった気がする。
「そうですよ」
「そうなんですか」
曖昧な笑顔を浮かべ取り敢えずの肯定をして、そのまま黙り、もくもくとタバコを一つの携帯灰皿を使い、二人で吸った。
ありがとうと例を言い喫煙室を出る。
後でわかったことだが、彼女はその会社の経営者の一人らしい。
これも時代なのかなと思い、また俺はタバコに火をつけた。