さよならの日
作者:軽野 鈴(かるの べる)
「お飲み物はいかがですか?」
いやに整えられたソプラノを無視して、おれは歩みを速めた。一瞬湧きかけた罪悪感を、自嘲的な笑みとともに飲み込む。つくづく自分は古い人間だ。機械相手に、申し訳なさを感じるなんて。
科学の進歩はとどまるところを知らず、中でも自動販売機の発展は目覚ましかった。現在ではもう、一部の地方を除いたほとんどの地域で、人型の自動販売機が稼働している。人型自動販売機には二つのタイプがあり、従来のものと同じく一定の箇所にとどまって商品を販売する設置型と、その設置型に商品を補充しながら一定の区域を練り歩いて販売も行う機動型がどちらもこの町で稼働していた。先ほどすれ違ったのは後者だろう。
「声をかけながら町を練り歩いて売るなんて、焼き芋屋のようだな」と娘に言ったら、怪訝な顔をされてしまったことを、ふと思い出す。娘が物心ついた時には、あの独特な歌を歌いながら町を走る石焼き芋屋さんは、絶滅してしまっていたのだ。
見慣れた街並みを足早に進み、幾度となく曲がってきた角を速度を落とさずに曲がる。
すると、ぽつりと、まるで時代に取り残されてしまったかのようにたたずむ、青い筐体が見えた。今ではもうすっかり見かけなくなった、旧型の自動販売機の生き残りだ。
けれど、この自動販売機も、あと数時間もしたら撤去されてしまうだろう。
だからこそ、こうして、わざわざここまで飲み物を買いに来たのだ。
「おはようございます」
自動販売機の正面に立つと、もはや聞き飽きたはずの、けれどなんだか懐かしいような気もする挨拶をされた。
普段ならここで鍵を取り出して前面を開け、飲み物の補充をするのだが、今日は鍵の代わりに小銭を取り出し、投入口にいれる。
考えてみれば、二十八年間この自動販売機に飲み物を補充してきたにもかかわらず、自分が客として購入したことは、今までなかったかもしれない。
「お好きな飲み物を選んで、画面にタッチしてください」
そんな声に急かされ、すこし悩んでからブラックコーヒーの画像を押した。
全自動で商品の補充を行える人型と違い、旧型の自動販売機は商品が減ってきたら補充をしなければならない。けれど、撤去されてしまうこの自動販売機に商品を補充するのは、昨日が最終日だった。
明日からは、別の地区に設置されている旧型への飲み物の補充が自分の仕事となる。けれど、それも年内にはすべて撤去されてしまう予定だから、これから先はどうなるのかわからない。
一つはっきりしているのは、時代に取り残されてしまったおれ達は、あの焼き芋屋のように忘れ去られていくのだろうことだけだった。
「ありがとうございました」
缶コーヒーを吐き出した自動販売機がおそらく最後になるであろう言葉を発する。人型とは違う、機械らしい音声で。
今日の缶コーヒーは、いつもよりも苦く、感じた。