世界の心臓
作者:星栞カノン
回る巨大な歯車に合わせて陽が昇り、また沈んでいく。
人のために生み出された『それ』は、空っぽなのにあまりにも完璧で、文句も言わずに彼らの命を温め続けていた。
太陽も、月も、とうにない。だが、生き汚い彼らはそれすらも見越して紛い物で世界を繋ぎ止めていく。
綻び、直し、解け、結び、そうしてどうにか形をなしているような世界に、『本物』なんてもうどれだけ残っているのだろう。
「…………」
夕陽に焼ける時計塔を見上げ、少女はそっと自らの頬に、そこに蔓延る大きな傷に、触れた。
願わくは、この傷が正しいものでありますように。
悲しみは悲しみのまま、癒えない傷は癒えないまま、背負って歩いていけますように───
「ねえ、あなたはどうして“手術”を受けないの?」
銀の右腕と左肩を持つ童女は首を傾げた。
「早く受けないと───『ダメ』になっちゃうよ」
こらやめなさい、と腕を引っ張り連れて行こうとする母親は、その顔面のほとんどが仮面のごときチタンに覆われていた。
そんな光景を横目に、今度は銅の首の浮浪者が通り過ぎていく。少女はやはり耐えきれず、そっと目を背けた。
不出来な箇所、気に入らないパーツ、あるいは失った機能。その全てを、簡単な手術で綺麗な無機物に交換できるという夢の技術が確立してから、もう何年が経っただろう。
昔はたかが義手や義足ですらもあまりに高価だったのに、今では心臓や血管すらも気軽に新しいものに替えることができる。
一度こうなってしまえばもう止まらない。いずれ彼らは死すらも越えて、その先の時代を生きていくのだろう。
「……馬鹿な質問」
だが、その代償として、人は目に見えて弱くなった。だめになったら替えればいい。気に入らないなら捨てればいい。
その考えが彼らを堕落させた。自らの体すら、消耗品のごとく使い捨てるようになった。
そろいもそろって、度し難い。大人がみんなそんなだから、さっきの童女のような、生まれつきの欠損を持つ子供が増え続けているのだ。
「どうして、って言われたって」
どちらかと言えば、こちらが「どうして」と問いたかった。
なぜ傷を隠そうとするのか。完璧なふりをして笑おうとするのか。
どう足掻いたところで、結局私たちは歪で不完全な存在のままなのに。
だったら私は、これでいい。この顔でいい。貼りつけたような美しさなら、いっそない方がいい。と思う。
でも、堂々と、すぐにそう答えることができなかったのは、結局私も強くないからなのだろう。
ふと風が吹き、肩口まで伸びた少女の黒い髪が控えめに沈みゆく陽を指し示す。
きっともう帰るべきだ。時計塔から視線を切り、踵を返す。
「こんにちは」
次に声をかけてきたのは、白衣を着た柔和な雰囲気の男性だった。
「こんにちは」
それも一人ではない。揃いの白衣が四人も並び、笑みすら浮かべてこちらに歩み寄る。
緩やかに囲まれている、そう気づいた時にはもう遅かった。
「こちらに『傷病者』がいるという通報を、受けたのですが」
「それは、あなたですか?」
「…………」
人は、本当に本当に、弱くなった。
自分の立場を上げるためなら、更なる研究のサンプルを得るためなら、人ひとりのプライドなんて簡単に摘み取られる。
ああ、
「嫌な時代ね。本当に」
これから自分がどうなるのかは、なんとなく分かる。
去年発表されたばかりの、最新の技術。変換医療の極致。
それ即ち、『心の交換』。
最初は凶悪犯罪者などのみを対象に行われていた、特別な施術だったのだが、一般化を望む声も各方面から上がってはいたのだ。
人に害をなす異常者を、世間からはみ出す社会不適合者を、いずれ世界は消し去ろうとしている―――
それ自体はまぁ、分からないことではない。自分を極めたら他者も正したくなるというのは、ある意味当然の流れと言えるだろう。どうせ孤独な身の上だ、その果てに天国が約束されているというのなら、研究とやらに協力するのもやぶさかではない。
だが、その物差しは、どこまで大きくなるのだろう。
いい人と、よくない人は、誰が決めていくのだろう。
「あんたら全員、頭おかしいんじゃないの?」
大人たちは、一瞬表情を曇らせた。やっぱりみんな、心のどこかで分かってはいるのだ。分かった上で、そちらにつくことを選んでいる。
「みんなみんな、偽物だ」
その言葉が、許された最後の自由だった。
私は『傷病者』として白衣の大人たちに身柄を拘束され、研究所へと連れて行かれた。
何がおかしいのか、誰が狂っているのか。
それを決められるのは、どうやら私ではないようだった。
ああ。
ならばせめて、私ではない誰かの傷は、正しいものでありますように。
悲しみは悲しみのまま、癒えない傷は癒えないまま、背負って歩いていけますように───