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夢のように

作者:井戸ノイア

 世の中は今、神童に溢れていた。

 神の寵愛を受けたとしか言い表すことの出来ない、類稀なる才能を持った天才児が一つの時代に、多く現れたのだ。

 中国では、13という若さで一騎当千。大人が何十人で挑もうと、それらを全く寄せ付けない『武』の天才が。ドイツでは、齢10にして大学を卒業、数々の新技術を毎月のように発表し続ける『知』の天才がいる。同様の天才たちは各国に現れ、今や次は何の天才が現れるかなど賭け事が行われているほどであった。

 

 そんな天才達が現れる中、日本に新たな天才が現れた。それは武に優れる訳でも無く、知性に溢れる訳でも無い、身体能力や知性で言えば、一般人にも劣る者だった。

 だが、彼はそれでも神の寵愛を受けていた。それと、同時に多くの人間は流石日本と思ったことだろう。

 

 彼は、可愛かった。

 他を寄せ付けないほどの圧倒的『可愛さ』

人々は羨望と崇拝の意味を込め、彼をこう呼んだ。

『最強の男の娘』と。

 

 さて、ここで世界中、あらゆる場所で不変の定義を一つ、提唱しよう。それは、可愛いは正義である、というものだ。

 国境を超え、言葉の壁を越え、性別を超え、それでもなお、可愛いは通じるのである。それは、どんな強力な武器よりも強く、どれだけ聡明な作戦でも覆すことの出来ない一つの事実であり、そうであるからこそ、どんな天才よりも日本の『最強の男の娘』は恐れられた。

 

 日本は世界一安全な抑止力を得たのである。

 彼を一目見れば、いや、その声をほんの僅かでも聞けば彼の虜になってしまう。それはもはや魔性の域を超え、この世の法則のようなものであった。

 彼は担ぎ上げられた。世界中を探しても彼の可愛さに勝る者はおらず、そんな彼を恨み蹴落とそうとした者もまた彼の可愛さに墜ちた。

 彼はその容姿、仕草、声という生まれ持ったものだけで、世界中の天才の頂点になったのだ。


 

 しかし、当の本人はこの状態をそれほど良いものと捉えてはいなかった。彼の立場にしてみれば当たり前なのかもしれない。

 可愛い、可愛いと持て囃され仕事などしなくとも、誰もが彼のために尽くす。ありとあらゆる行動が正当化され、起こしたことは無いが、それが犯罪行為だったとしても喜んで皆が協力するだろう。

 周囲には常に人がいて、やりたいことは何でも思い通り。だが、それは同時に彼にとっての周囲の人というのは全てが信者であり、同じ立場で接する友人はおらず、思い通りにならない、分からないことの無い世界。それは果たして、本当に幸せな世界と言えるのだろうか。

 いや、彼にとってはそれさえも些細な問題でしか無かった。彼は良くないものと知りながらもこれを現実として受け止めるのか、それとも拒絶するのか、そこに大きな葛藤を抱いていたのだ。

 禁断の果実と知ってなお、そこには抗えないほどの魅力があった。

 

 だって、そうじゃあないか。元々はドジで、勉強も出来ず、容姿も特に優れている訳でも無い。かといって閃きがある訳でも無く、失敗に失敗を重ね、幸運の積み重ねの末に、今のこの姿があるのだ。

 世の中の仕組みというものを知っているからこそ、この甘美な堕落を良くないものと知り、しかし諦めることの出来ない魅惑がそこにはあった。それはもはや決まった心積もりのようでありながら、心の中の一握りほどにまで擦り減ってしまった理性が、このままではいけないと叫び、彼を留まらせる。

 けれど、一度堕落を知ってしまえば、そこから抜け出すことは容易では無い。事実、彼は葛藤していると思い込んでいるだけであり、既にそこを自身の居場所と定めていた。

 まだ、悩んでいる。だから、ここに居ることは間違いじゃない。まだ、戻る気があるのだから。そうして、自身の行動を正当化しようとしているのである。

 

 彼のいる場所。そこは仮想現実。世界シミュレーションと名付けられたそれは膨大な数の人間からデータを取り、地球を再現した偽りの世界。幸運だけで選ばれた彼は、現実世界で今も、極普通の冴えない容姿のまま他の参加者と共にベッドに横たわっている。

 

 果たして、その世界に居続けることは悪いことなのだろうか。現実世界で辛い、苦しい思いを抱き、日々をただ生き続けるくらいならば、あちらの世界のほうが幸せなのかもしれない。

 それは夢だ。長い長い、覚めることに激しい抵抗を覚える極上の夢。

 けれども、胡蝶の夢という言葉があるように、それは本当にただの夢なのだろうか。夢も貫き通せば現実になるかもしれない。夢を見続ければ、それはいつしか自分の中で、もう一つの現実へと成り代わって行くだろう。

 我々の命は短いのだ。もう一つの現実に恋をしたところで、誰も咎めることは出来ないだろう。

 

 夢は終わらない。

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