ようこそ図書館へ
作者:エトナ
「ようこそ図書館へ」
そう書かれた看板が掛かった古めかしい扉はいやに重かった。軋みながら開いた扉の先で「本の森」を初めて見た時の感動は、今でも覚えている。己の背より高く作られた書架は赤茶けた木の色を強く残していた。立ち並ぶそれらは複数の段に分けられ、各段には様々な本が所狭しと並べられている。大きさの違う本が面毎に綺麗に整列され、手の届かぬ隅まで積まれている様に高揚が止まなかった。書架がどれだけ並んでいるのか端まで走っては叱られたし、冗談交じりに「この本全部読んでいいんだよ」と言われたときの反応は思い返すと少々気恥しい。全ての本を読破するという児童らしい夢を片手に、私は本の森に、自分の知らない世界や魅力的なキャラクターに惹かれていった。
物語で描かれる様々な人間の感情を熱心に学ぶようになったのは小学校の恩師の影響だ。好きという気持ちから生まれる憧れと嫉妬に感動し、戦いには恐怖と高揚が交互に顔を出し、科学の深淵に手をかけるフィクションには好奇心を、推理と言葉遊びのミステリーには猜疑心を育まれた。私は、人心というものを、人よりも本から多く学んだのである。
そして今また、私は本の森を歩いている。前述のごとく、幼いころから本に心惹かれていた私に司書という仕事は天職だった。頭より高く組まれた書架。見渡す限りに整列された本の群れ。視界を全て本に囲まれ、記された文字に囲まれ、込められた思いに囲まれ、綴られた歴史に囲まれる。本を抱えた左腕に実際の質量以上のものを感じるが、私の認識に基づいているそれは心地良さこそある。
内容に関わらず、本というだけで「好き」という感情を向けるのに抵抗はない。本とは、人が己以外の他人に対して知識を伝えるために書かれたものだ。そこには、伝えたい、記録したいという感情がある。その感情は「優しさ」と呼んで相違ない。自分の知識を誰かに伝えるために本が作られ、その本を誰かに届けるために図書館があり、司書が居る。そうして働けるというだけで、そこに立っているだけで、人間の優しさの橋渡しをできるという幸福を味わえるのだ。
一冊ずつ、分類に基づいて本をあるべきところへ戻す配架作業が私は好きだ。本とは知識である。そして、その蓄積はそれこそ人の歴史に等しい。人が未来に残すために書いた文字は、人が過去を認識するための材料になる。現代から近代へ、近世、中世、古代と遡るにつれ、偉大な先達たちへの繋がりがそこかしこに見出せる。配架で一冊ずつ知識と歴史の積み重ねの隙間を埋めるその行為は、実際の作業以上に全能感を覚えられた。その感覚を味わってから、私の本の好みは古典や歴史関連に流れていった。書架担当も2類と9類がメインである。
並ぶ背表紙に指を這わせる。触れたのは私が最も好きな時代小説だ。自分より先に生まれた作家が、さらに古い時代に生きた人間への想いを形にした物語である。もちろん、それは物語であり、作中で語られていること全てが事実というわけではない。人一人の人生の全てを文字にすることなど叶わない。多くの事実が省かれ、あるいは忘れられ、特定の出来事だけが脚色過多に描かれ、そして時には創作される。そこには書き手の感情がある。過去を語る時に、与えられる紙幅で、何をどう描くか。それを選ぶのは書き手であり、書き手の想いがその選択に込められる。その時の感情は、「面白い」が一番大きいのだ。この人物はここが面白い、この出来事が面白い。そうした「面白さ」があったからこそ過去に残すために書物になっているのだ。偉大なる先達は皆そこに何かしらの面白さを抱えている。歴史は勝者が作るとは言うけれど、歴史の本質は勝敗ではない。歴史には「面白い」が残るのだ。
そして、その面白さを決めるのは書き手だけではない。歴史を歴史足らしめるのは、歴史の書き手ではなくそれを紡いでいく読み手である。多くの読み手がそれを面白いと思ったから、この本は今私の目の前に並んでいる。数年前に刊行された詩集も、数十年前の小説も、数百年前の人物の伝記も、千年の時を超える物語も。その時代から今まで、誰かに何かの形で「面白い」と思われたから残っているのだ。偉大なる先達が本を作り、偉大なる先達がそれを伝えてきた。それは、私の好きな歴史というジャンルに限った話ではない。人が本にしてきた全ての事柄は今までの人類史の積み重ねである。自分の歩く道の遥かな先に偉大な先達の足跡を見つけることができる楽しさは、千年の昔も変わらない。そして、この道は私の遥か後にも続いているだろう。私たちが先達を面白いと思うのと同じように、私たちも後輩に面白いと思ってもらいたいものだ。
看板の揺れる音が聞こえ、古めかしい木の扉が軋みながら開く。
「あの、すいません」
消え入りそうな声に振り向く。だが、その声にあるのは不安ではなかった。
本の森に目を輝かせる小さな後輩に、私はこう言うのだ。
「ようこそ、図書館へ」