ワガモノキ鳥
作者名:僕話ヒノトリ
「ワガモノキ鳥」はカツオドリ目ウ科に属する生き物、川に酷似した大きなを持つ鳥類です。
身長は約1メートル、体重は市販されているモップ一本と同程度です。
一般的な川鵜と異なり黄色と黒の入り交じる蜂の様な厳つい羽毛を持ちます。
この色合いは害を及ぼす他生物に対する警告の役割を持つといわれ、彼等が周囲に対して強い警戒心を抱いていることが伺えます。
基本的に特定の主人の元で暮らし特殊な漁を行うことで生きていきます。
臆病な性格であるため主人以外は彼等を滅多に見ることが出来ません。
彼等の行う特殊な漁とは電脳世界での狩猟です。
「ワガモノキ鳥」はカワセミが魚を求めて水中に飛び込むかのようにインターネット等のネットワークに飛び込む事が出来ます。
お目当てはネットワークの流れに生きる魚「あゆ」です。
彼等はその魚を見つけてはそれを鵜呑みにし持ち帰ります。
どうやら食事は落ち着いた住み家でゆっくりと食べたい派のようです。
住み家に帰った「ワガモノキ鳥」は主人に対して鵜呑みにしていた魚をいくつか分け与えます。
これは住み家を利用していることへの恩賞のようなもので意外と律儀な一面が垣間見えます。
更に彼等の唾液には飲み込んだ魚を大人しくさせるための幻覚作用があり、これに人間が触れた場合「手にしているものが最初から自分のものである」という錯覚を引き起こします。
お前のものは俺の物、と考えてしまうアレです。
この特性によって主人に警戒されることなく彼等は住み家を確保することが出来るのです。
「ワガモノキ鳥」を飼い慣らすことが出来る人物、主人になれる人物には三つの条件があります。
条件1
想像力が豊富で目的のために様々な手段を実行に移すことが出来る。
条件2
自己顕示欲が強く周囲から注目を浴びていないと不満を感じる。
条件3
非効率を嫌い地道な作業が苦手である。
これらの条件を満たしている人物が「ワガモノキ鳥」の主人になった時、彼らを自在に操ることが出来るのです。
飼い主は「ワガモノキ鳥」から得た魚をあたかも自分のものであるかのようにネット上の市場に売り出します。
当人は自分のものだと信じこんでいますので誰かに許可をとることなどありません。
「ワガモノキ鳥」を利用した漁は多くの場合、飼い主によい影響を与えます。
優れた「ワガモノキ鳥」はクォリティの高い新鮮な魚を見つけてくるので飼い主は苦労なく賞賛を得ることが出来るのです。
さて、ここまで「ワガモノキ鳥」の生態について語ってきましたがここからは彼等の餌になってしまう魚達のお話をしましょう。
「吾愉」、通称「あゆ」はネットワークの中で楽しく暮らす魚です。
さらに言うのであれば彼等は私達が「作品」と呼ぶ存在です。
「あゆ」は情報を食べて成長する魚で、よい「あゆ」程沢山の情報と思いを蓄え丸々と成長していきます。
基本的に人気が苦手で、探そうとすると隠れてしまいます。
色々なことを考え、思案し夢中になって試行錯誤するものの側に現れやすいようです。
想像力が高い人物を好む「ワガモノキ鳥」に対して「あゆ」は創造力の高い人物を好みます。
想像力とは思い描き実行する力、創造力とは思い描いた物を生み出す力、読みこそ似ていますが本質的には異なる力なのです。
ネットワークを遊泳する魚なので住む場所を気にせずに飼える魚として飼育されることもあります。
良い飼い主はよく餌を与え、与えられただけ「あゆ」も成長していきます。
平穏な生活をおくる「あゆ」にとってワガモノキ鳥は天敵ですがなにも彼等に食べられるために生きている訳ではありません。
長く生きる個体ほど安全な流れを選んで遊泳したり、自己防衛の術を持っています。
まぁどれだけ頑張っても、食べられる時は食べられるのですが……。
また大きく成長した「あゆ」はワガモノキ鳥の自慢の嘴でも飲み込むことが出来ず、ワガモノキ鳥は大いにはぶてることでしょう。
「ワガモノキ鳥」と「あゆ」の生態系は近年の社会のネットワーク化に伴い大きな変化をみせています。
インターネットの発展は即ち「あゆ」の生息域拡大に繋がり、様々な場所でワガモノキ鳥による漁が発生しています。
狩りとられた「あゆ」は小説、漫画、アニメ、動画等多くの市場に出回っており、「あゆ」を愛好し育成している方々は甚大な被害を受けています。
しかし市場の人間達にとって大事なことはその魚がよく売れる魚かどうかであって誰の魚だったかを気にすることは少ないことが現状です。
一々自分達が食べる魚がどこからやってきたのかを調べる人なんてそういません。
しかし警戒心の薄い鳥、ドードーが地上から姿を消し、象牙を求めて狩られてきたアフリカゾウが絶滅危惧種となったこれまでの歴史をみれば、繰り返される密漁が何を意味するのか多くの人々が理解するべきでしょう。
あなたの前に彼等が現れた時、あなたは気を引き締めなければなりません。
狩るものも、狩られるものも平等に、狩りはいつでも命懸けなのですから。