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記憶の旅人

作者:柏尾変太郎(かしお・へんたろう)

 「あら、あなたも窓崎まで行かれるの?」

 駅の路線図を眺めていると、品の良さそうな老女から声を掛けられた。今日日、顔を見ても人の年齢はいまいちよく分からないが、七十歳くらいだろうか、目元には深い皺が幾重にも刻まれ、整えられた白髪はこざっぱりとしている。

「悪いのだけど、私の分の切符も買ってくださらない? どうも切符の買い方がよく分からなくて」

 私は別に窓崎まで行こうとしていたわけではない。というか、特段どこに行こうというわけではなかった。ただ、どうにも遣る瀬無い気持ちがして、何をするにも気が起きず、いっその事どこか遠くへ行ってしまおうかと思って、最寄り駅まで出てきて路線図を眺めていただけである。

 老女に言われた窓崎という駅は、ちょうど私の立つ正面の路線図上に存在した。ここから上りで十五ほど先にあるらしい。私の当初の予定からすればいささか近過ぎるようにも思えたが、もともと確固たる目的地があるわけでもなかったから、私はこの老女に付いて窓崎まで向かうことに決めた。

 私は最近、改札を通るのにもっぱらPDAしか利用していなかった。しかし老女から頼まれた手前、彼女には切符を渡して自分だけPDAを使うというのもおかしな話に思えたので、券売機で二人分の切符を購入してそれで改札を通過した。老女からは切符代として額面の大きな札を渡されたが、お釣りを渡そうとすると、「いいのよ。そのまま受け取ってちょうだい」と断られてしまったため、なんとなく申し訳のない気持ちを感じつつも、ありがたく差額を懐に収めることにした。

 

 エレベーターからプラットホームに降り立つと、ちょうどよく上りの列車が侵入してきたところだったので、そのまま乗車し、ロングシートに老女と二人並んで腰掛けた。向かい側の車窓から町並みが流れていく。

「あなたも、これから講義?」

 老女がにこやかに尋ねてきた。あなたも、ということは、彼女は窓崎へ講義に向かうらしい。私にはこれといって目的がないから、はたして何と答えたらよいものかと悩んだ結果、「まあ、そんなところです」とだけ言ってお茶を濁した。

「しかし、鉄道会社も現金なものよね。大学がキャンパスを移してしまった後で路線を延ばそうだなんて」

 私は鉄道事情にまったく明るくないから、老女のこの一言にもとくに気の利いた返事ができなかった。ただ、さきほど路線図で見た窓崎駅は他の路線と乗り入れ運転すらしているようだったから、これからどのように延線するのか、少し不思議だった。

「早く窓崎まで電車を通してくれればいいのにね。大学がある間は全然重い腰を上げる素振りもなかったのに。酷い扱いの差だわ」

 老女はあくまでにこやかだが、私は違和感を覚えずにはいられなかった。窓崎まで路線はすでに通じている。そもそも、窓崎まで行きたがっていたのはこの老女の方だった。どういうことか考えあぐねていると、老女がまた口を開いた。

「あら、あなた、この電車はどこまで行くかご存知?」

 私は背筋が凍る心地がした。

 この老女は今、この列車がどこへ向かっているか分からないまま、この列車に乗っているのだ。はじめ、老女はたしかに窓崎まで行こうとしていた。そのために私を捉まえて切符まで用意した。しかし、今は違う。

 老女の顔は笑みを湛えたままだ。私が「窓崎です」と答えると、老女は、

「そう。窓崎まで電車が通って、便利になったわね」

 と、表情を変えることなく言った。

 それから窓崎に着くまで私は、老女が時代を往き来しながら話すのに、曖昧な相槌を打ち続けるしかなかった。

 

「あら、大学はどっちかしら」

 窓崎駅に着いてから老女は大学を探しはじめた。しかし、ぐるぐると周りを見渡しても一向に見つけられそうな気配はない。

 私は駅の周辺案内図から大学博物館の文字を見つけ、老女をそこまで連れて行くことにした。私が方向を示すと老女は、

「あら、これはどうもご親切に」

 と言って、人懐こい笑顔を絶やすことなく私に付いてきた。彼女は今、彼女の記憶のどの時代にいるのだろうか。

 駅から大学博物館までは五分もかからなかった。博物館は歴史を感じさせる赤レンガの建物だった。敷地の入り口にはこぢんまりとした門があり、その前に中年の女性が立っていた。

「お義母さん!」

 その女性は老女を見るなりこちらへ駆けてきた。

「駄目でしょう、勝手にまたこんな所まで来ちゃ」

 女性が老女を窘めるが、老女の方は笑って「あら、あら」と繰り返すばかりだ。老女の笑顔に淡い寂寥を感じていると、女性から声を掛けられた。

「どうもご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 女性に頭を下げられたものの、何と返答してよいか分からず閊えているうちに、女性は老女を連れて去ろうとしていた。

「あ、待ってください」

 私はやっとのことで一言絞り出し、老女から切符代として渡された札を女性に返した。女性は札を受け取ると、再度頭を下げてから、老女と町の中へ消えていった。

 私は一人、博物館を回ることにした。

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