top of page

継承の儀

作者:蛇穴 禅

 先代がおもむろに口を開いた。

「わしは、許さん」

 まっすぐ私に向けられたそれは、静かで、そして重々しい声だった。空気が電気を帯びたような錯覚。自然と背筋が伸びるのを感じる。

「お言葉ですが、先代。あなたはご隠居なされた身。許すも何もあなたにそんな権限はございません」

「黙っとれ」

 噛みつく役員に先代は声を荒げるでもなく、一言だけそう返した。それ以上食い下がる者はいなかった。

「そもそもよ、小僧。わしらのお役目はなんじゃと思うとる。のう、言うてみい。この国を統べることじゃないんか」

「……、仰る通りでございます」

「わしはのう、特段自分が優れていたとは思わん。だが、お役目を全うしたいという信念だけは貫いたつもりだ。体が言うことを聞かなくなるその瞬間まで国のことを思うとった。じゃがお前はどうだ。まだそんな若い内からもうこの国を見限ったか? ええ? 言うてみい」

 肘掛けに体重を預け、ほとんど寝そべるようにして座る先代の身体は枯木の枝のように細く、見ていて不安になるほどだった。

 先代から私への継承は儀を通してのものではない。心身の限界を迎え、お役目を果たせないと役員が認めた時、お役目は私へと継承された。先代までは寧ろそれが当たり前だった。

「私は……」

 私は、言いながらそこに続く言葉を探す。国を捨てたわけではありません。心身の限界を感じていない今だからこそ、先の混乱を起こすまいと儀を執り行うのです。これは国のことを思ってのことです。先代のやり方の方が寧ろ国の為にならないのです。

 様々な反論が脳裏に浮かんでは消えた。どれも言い訳に過ぎない。

 長らくの沈黙に会場がわずかにざわめきだした。伸びていたはずの背筋はいつの間にか丸まり、先代の顔はすでに見えていない。私はひたすらに自分の膝を見つめた。汗が伝った頬が冷たい。唾を飲み込み覚悟を決めた。

「私は、私にはこのお役目は荷が重すぎました。私が受け持つこととなったこの三十年、この国の世情はあまりに激しく移り変わりました。そこまで優れていたわけでもない私には、この国の軌道を定めることなどできなかったのです」

「運が悪かったと、そう言いたいのか? 自分の代が特別大変だったと? 先の代が楽してお役目を担ったと?」

 言葉を紡げば紡ぐほど、先代の声は確かな怒気を帯びていった。

「わし等は自らの名一つで国を支えにゃならんし、いつの時代でも明日を見た者は一人もおらん。小僧、貴様だけが特別辛いお役目だったと本当に思っておるのか」

「しかし先代、この国の現状を見てください。まとまり等無く、どこへ向かうのかすら私には分かりません。全て私の力が及ばなかったが故です。これは確かに言い訳です。しかし客観的事実でもあります。私がこのままお役目を続ければこの国はダメになってしまう」

 勢いに負けて情けないことを言ってしまったが、後悔は無かった。顔を上げることは出来ず、先代の表情は分からない。

「そうか。貴様は上手くいかなかったのは仕方の無いことで、後の処理の責任も自らが負うべきではないと言いたいわけだな。尻ぬぐいすらも出来ん腰抜けに一国を任せるのは確かに無理がある。勝手にせい。

 言っておくがな、貴様がどんなに逃げようと、貴様の名前は時代にしっかりと刻み込まれる。混沌の時代の象徴として貴様の名前が付いて回るぞ」

 そこまで言うと、先代は側近を傍に呼び寄せ、支えられながら立ち上がった。足を半分引き摺るように会場を出て行く先代を引き留めようとする者は一人もいなかった。

 先代の視線から逃れられたというのに私の身体は動けないままだった。震える左手を右手で抑え、先程の先代の言葉を何としても噛み締めてしまわないよう固く閉口した。

 先代が会場を出た後、役員の一人が声を上げた。

「引き続き継承の儀を執り行いたいと思います。当代、お名前の返納をお願い申し上げます」

 私は役員に言われるがまま立ち上がり壇上へと向かった。

 私は間違っていない。先代に私の苦しさがわかるわけもない。早く次の時代に託す方がこの国の為にもなるというものだ。何が付いて回るというのだ。この場で返納するんだぞ。安心しろ。私は冷静な判断が出来ている。

 役員の目くばせを確認し、私は平成という自らの名を台へと乗せた。

bottom of page