時代
作者名:卜部理玲
四角い円という時代がありました。
時代というものは、そのなかにあってはうまくつかみきれないものであり、その時代が終わってからようやくどのような時代であったかということがわかる、というものです。この四角い円という時代はまさにそのような時代であって、いま言葉にしてみることによってようやく私はわかりはじめています。
たとえば点と直線という時代があって、それはまた机とビールジョッキという時代であって、あるいはぼくときみという時代であって、これらは一見異なるようであって実は互いに等価であった時代でした。同様に、人間があって、それはまたコーヒーカップであって、あるいはドーナッツであって、これらも一見異なるようで実は互いに同相でした。常に同じ時代と人間でありつづけたにも関わらず、同じ時代と人間によって作られてきた物語には31の異なる機能が生まれました。
時代というものは回るものであり、巡るものでもあって、激しく移り変わっていくものではありますが、その運動をよく見ると実はある一点を中心とした円運動であるかもしれなくて、平面上で円運動する時代を同じ平面上から観測しているからこそ時代の側面だけを見て激しく振動するものとして時代を認識していたのかもしれません。新しい時代の側面を次々に見て、回る時代に踊らされて時代というものを過ごしていく。そしていつしか目を回してしまって自分が回っているのか時代が回っているのかが不明瞭になり、やがてまた時代は一巡して元の位置に戻ってきて古くて新しい時代がやってくるのでした。もしかすると、平面もまた実は時代とともに運動しており、時代は螺旋を描いてまだ見ぬ地平へと旋回していくのかもしれません。螺旋を描きながら進んでいく時代はふたつの相補的な螺旋から成ることが経験的に知られていて、それらは遺伝子と模倣子と呼ばれます。
変わっていく時代を乗り越えていく人間は少ないのですが、少なくない数の物語たちが変わっていく時代を次々に乗り越えてきました。生まれたあといくらでも自らを変えていけるはずの人間というものはなぜだか変わっていきづらくて、むしろ生み出されてしまって自ら変わることの出来ない物語の方がかえって時代に合わせてしなやかにしぶとく生き残っていきます。たとえ生き残れなかったようにみえても、物語は他の物語のうちに脈々と受け継がれていき、思いもよらないところで姿を変えながらも大きく花開くのでした。
四角い円という時代。それは視覚化を許さなかった時代。言葉だけが許されていた時代。自由な想像があり、自由な創造がなかった時代。
言葉だけで語られうる物語が跋扈し、言葉だけで語られえない物語は物語の地平線上に浮上することがありませんでした。そしていま、物語たちが姿を得て自らを語るべく無数の自由な活動をはじめました。
四角い円という時代において語られ得なかった物語たちが、用いるべき言葉と姿を得て自ら語りだした時代。それがいまという時代です。語られるはずのなかった私のしたいこと。それは、この時代の名付け親となることではなくて、語るべき言葉と姿をもって好きなものを好きなだけ語ること。いま、私の目の前には語るべきすべての物語が語り尽くせないほど広大な世界に広がっています。