薬指のキズ
作者:toiro
「あ〜、クソだりぃ、溶けそう。」
七月下旬、コンクリートをじりじりと焼く太陽が鬱陶しく付き纏う昼下がり。バイトの面接が終わり、帰り道の途中で俺は項垂れていた。
本来なら今頃、クーラーの効いた部屋で寛いでいる時間だが、それを見かねた母親が、暇なら自分の小遣いくらい自分で稼げと無理矢理応募させたのだ。
身体中の水分が蒸発する程に喉が乾いた彼の目に、真っ赤な自販機が飛び込んできた。
迷わずポケットに突っ込んだ千円札を自販機に入れ、500mlサイダーのボタンを押す。がこん、と商品が落ちたのを見届け、お釣りを取ろうと排出口に手を伸ばしたその時、何か硬いものを踏んづけた感触があった。
足をどけてよく見てみると、それは指輪のようだった。
「んだよ、小銭かと思ったのに。」
なんだ、肩を落とした後、何故こんなところに指輪が落ちているのかという疑問が浮かぶ。
小傷が目立つ、随分と年季の入った金色の指輪だ。厚みがあるせいか、ずっしりと金属の重みが感じられる、今どきの若者は着けないであろう古めかしい指輪だった。
宝石の一つでも入っていないものかとじっくり観察すると、指輪の内側に彫刻が彫られていることに気が付いた。
「1966,5,1……ウチのババアの誕生日じゃねぇか。」
指輪の裏側に日付。恐らく結婚指輪だろうと理解した途端、この指輪をどうこうしてやろうという気が失せ、一体どんな馬鹿がこんなものをこんな場所に落とすだろうかと溜め息をついた。
「こんなキズもんの結婚指輪じゃ何の足しにもならねーよ、ったく。」
呆れつつ、指輪を元の場所に戻そうとしたその時、
「あの、それ、拾ってくれたんですか。」
振り返ると、自分と同じかそれより年下くらいに見える女学生が、自転車から降りてこちらを見ていた。ボサボサの黒髪ポニーテールと荒げた息遣いから、彼女が相当焦っていることが見て取れる。
「はっ、え、これアンタの?」
「そうです。ずっと、探していたんです。」
指輪の見た目からして、到底想像出来ないであろう持ち主が現れ困惑していると、彼女は不思議そうにこちらの顔を覗き込んできた。
「あの、どうかしましたか。」
「いや、思ってた持ち主と想像が違っていたからビビっただけで。」
ああ、と彼女は納得すると、元々その指輪は祖母のものであると言った。
「私、根っからのおばあちゃん子でして、その指輪は形見なんです。私、おっちょこちょいだから失くした時は本当に焦ってしまって……見つけてくれて助かりました。」
ありがとうございます。と頭を下げ、何かお礼を、とあたふたしているのを余所に、先程のお釣りを再度自販機に突っ込み、サイダーのボタンを押した。
「お礼とかめんどいからいいから。それよりこれやるから、飲めば。」
ドカッと自販機横のベンチに腰掛け、遠慮する彼女を促すようにサイダーの蓋を開けた。プシュッと弾ける炭酸の音が、息苦しい暑さを少しだけ和らげた。
「すみません、ではお言葉に甘えて……頂きます。」
彼女も相当喉が乾いていたのだろう。みるみる内にペットボトルの中身が減っていく。
「その指輪キズだらけだけど、何かしないの、その、磨いたりとか。」
いえ、と彼女が首を横に振る。このキズはその一つ一つが思い出なんですと呟き、少し目を伏せた。
「私も一度聞いたことがあるんです。指輪、綺麗にしないのかって。でもおばあちゃんはしないと言いました。」
何故、と聞くと彼女は続けて語った。
「キズがつく、という事はそれだけ沢山身に着けているという事です。ついたキズは、例えば洗い物してる時や、お掃除してる時、お散歩に出掛けた時など、日々の生活の中で出来たものですよね。
ということは、どのキズもおじいちゃんと過ごした中で出来たもので、二人で幸せに暮らしていた時代の思い出だ、なんて言うんです。」
そんなキズ、消せないですよね。とへらりと笑う彼女を見て、数分前の邪な自分がぷいと顔を背けた。
「そんな指輪失くすんじゃねぇよ。」
気の利いた言葉も言えず、少し突き放すように言うと彼女は照れながら、そうですよね、すみませんと謝った。
「あれ、こんなキズあったかな。」
よく見てみると、リングの縁に細かい擦りキズが付いていた。あれだ、きっと踏んづけた時のキズだ。
「悪ぃ、それ、俺かも。」
背けた目をチラリと彼女の方へ向けると、彼女は優しい表情のまま、貴方がこの指輪を見つけてくれた思い出のキズって事ですね、と微笑んだ。
「お前、馬鹿じゃねぇの。」
「あはは、よく言われます。」
それじゃそろそろ、と言い彼女がこちらに向き直る。
「今日は指輪を見つけてくれた上にサイダーまで……本当にありがとうございました。」
あの、お名前はと聞くので、悠斗と言うと、私は柚葉です。悠斗さん、またどこかで。と言い残し颯爽と自転車で去っていった。坂道に消えていく黒髪のポニーテールを、俺はしばらく眺めていた。
金色の柚子の突風が、炭酸の抜けたサイダーと青春時代に一つ、キズを残していった。