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琥珀色の信頼

作者名:にわりはちぶ

 深夜のオーセンティックバー。カウンターテーブルを前に青年と老人、2人の男性が座っていた。
 青年は5枚の1万円札をテーブル上に置いた。
「挑戦料は5万円で足りる?」
「気前が良いな」
「賞金と比べれば安いものさ」
 客同士で始まった賭け事を横目に、バーのマスターである私はウィスキーのボトルを手に取った。僅かに埃が付着していた為、布巾で拭う。
 老人は鞄から札束を取り出していた。新旧様々な1万円札の束。軽く見積もっても300万円は超えている。
 テーブル上には空のグラスと折りたたみタイプの携帯電話、そして札束が置かれた。
「古い携帯だね。骨董品レベルだ」
「君は私と無駄話をしに来たのか?」
「まさか」と、青年は口角を僅かに吊り上げた。
「とあるバーにいる爺さんにギャンブルで勝てば、賞金がもらえる。ギャンブルは挑戦者が好きなものを選んでいい……噂は本当だった訳だ」
 常連客である眼前の老人と、これまた別の常連客が始めた戯れである。老人はこの戯れに10年以上無敗を保ち続けている。噂が噂を呼び、定期的に挑戦者が現れるようになっていた。
 青年はポケットから500円硬貨を取り出した。
「コインを投げて表が出れば俺の勝ち。裏が出ればあんたの勝ち。シンプルなゲームだ、オッケー?」
 老人は首肯を返した。
 青年はコインを指で弾いた。宙を舞ったコインが鈍く煌めく。
 コインが青年の左手の甲に落ちた瞬間、振り下ろされた右掌がコインを覆った。
「ショウダウン、だ」
 青年の声が耳朶を打つより先、私は気付いた。
 弾かれたコインは高速で回転しているように見えるが、実際は相応にゆっくりと回っている。ある程度の動体視力があれば回転中でも裏表の視認は可能である。
 空中で回転する500円硬貨には、表にも裏にも桐がデザインされていた。つまり、どちらも表のイカサマコインだったのである。
 狡い真似をすると思いつつも、口には出さない。これは当事者同士の勝負事である。部外者が横槍を入れるのは野暮である。
 私は、すぼまった口が特徴のチューリップ型グラスを取り出した。立ちのぼる香りがグラスの中に留まり易い形状の為、香り高いウィスキーを楽しむのに適したグラスである。
 ちらりと青年の顔に目をやる。その顔には笑みがあった。
 青年はゆっくりと右手を横にずらした。
 出現したのは当然、表の状態の500円硬貨である。
「俺の勝ち」
 声音からは勝利者の余裕を感じ取れた。
 もしもイカサマの現場を押さえるのであれば、このタイミングで青年に飛び掛かる他ない。
 だが、老人が青年に手を伸ばすことはなかった。
「時代が変わっても色褪せないものがある」
「は?」
「歌や絵画、それに、映画もだ。名作は時代が変わっても色褪せない。バットマンを観たことは?」
「数十年前の映画だ。見たこともない。それが何?」
「大抵のテクニックには先駆者がいるということだ」
 老人は携帯電話を手に取ると、ボタンを押下した。
「色褪せないものは他にもある。例えば……」
「あんた、どこに電話を」
「例えば法律だ。今回の場合だと、貨幣損傷取締法」
 法律という単語を耳にした瞬間、彼の声帯は機能を停止したようであった。
「遥か昔に制定された法だ。そして今でも効力がある。如何なる目的であっても貨幣を意図的に加工した者には罰が与えられる。違反者には1年以下の懲役、或いは20万円以下の罰金」
 スピーカーモードの携帯電話から無機質なコール音が流れ出る。
 コール音が止まった瞬間、男の声が流れ始めた。
「はい、こちら警察です。どうされましたか?」
 老人はボタンを押し、スピーカーモードをオフにした。人差し指はスピーカーボタンに置かれたままである。
「さて、君に10秒やろう。最善の行動を期待したいな」
 青年は何か言いたげに唇を微動させたが、発声の機会を得ることはなかった。不愉快そうに顔を歪めたまま、大股で店を出ていった。
 老人は電話越しに間違えた旨の謝辞を伝えると、携帯電話を切った。
「コインの仕掛けにはいつ気付いたのです?」
「確信はなかった。確信があったら掴みかかっていたよ。ただ、推測はできた。両面表のコインはフィクションで良く使われる手だ。それに、相手側にコインを調べさせない等、コインに仕掛けがあると言っているのと同じだ」
「残念ながら彼は2度とお店に来ないでしょう。今日も何も注文せずに帰ってしまった」
「では私が彼の代わりに注文しよう。良いウィスキーはあるかな?」
 老人が疑問を紡ぐのとほぼ同じタイミング、私は脚の短いチューリップ型のグラスを差し出し、開けたばかりのウィスキーを注いだ。
「ジョニーウォーカー、キングジョージ5世です」
「随分と良いボトルを開けたな」
「1本5万円です」
 老人は小さく目を見開き、僅かに白い歯を覗かせた。
「結果がわかっていたのか?」
「長い付き合いですから」
 私は眼前の友人から、置きっぱなしにされていた5枚の1万円札を受け取った。

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